地球交響曲 (ガイアシンフォニー)第一番 予告編と登場人物紹介
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野澤重雄 |
「トマトは心を持っている。私は、そのトマトの心にたずね、トマトに教わりながら、成長の手助けをしただけなんです。」 たった一粒のごく普通のトマトの種から、バイオテクノロジ ーも特殊肥料も一切使わず、一万三千個も実のなるトマトの巨木を作ってしまった野澤重雄さんはそう語る。 この映画では、トマトの種植えから一万三千個も実のなら 巨木に成長するまでの過程を克明に記録しながら、野沢 重雄さんのトマト生命哲学を聞く。 科学の実証主義的方法を踏まえながら、科学の常識では理解できない奇跡を現実に見せてくれる野沢さんとトマト。 |
1913年 (大正2年)8月10日東京生まれ。
1939年 東京大学農学部農業土木科卒業。 台湾製糖株式会社に製糖技師として入社。 1946年 終戦により帰国。 1953年 協和化学工業株式会社を設立。 代表取締役社長に就任。 1978年 協和株式会社に社名変更。 1985年 代表取締役会長に就任。 同年ハイポニカ(水気耕栽培法) トマトが筑波国際科学技術博覧会の 日本政府館メイン展示に採用され一万数千個 の実を付けた。 1982年 科学技術功労者長官賞を受賞。 1985年 勲四等旭日小授章を受賞。 1986年 吉川英治文化賞を受賞。 2001年 12月28日死去、84歳。 著書
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ラインホルト・メスナー |
頂上への最後のアタックを開始するときの到来を、メスナーはいつもその「少女」との対話の中で統る。 |
1944年 イタリア北部の村、フィルネスに生まれる。
1970年 ナンガ・パルバート登頂。 1972年 マナスル登頂。 1975年 ヒドン・ピーク登頂。 1978年 エベレスト登頂。ナンガ・パルバート登頂。 1979年 K2登頂。 1980年 エベレスト登頂。 1981年 シシャ・パンマ登頂。 1982年 カンチェンジュンガ登頂。ガッシャーブルム登頂 ブロード・ピーク登頂。 1983年 チョー・オユー登頂。 1984年 ガッシャーブルム?U登頂。ヒドン・ピーク登頂。 1985年 アンナプルナ登頂。ダウラギリ登頂。 1986年 マカルー登頂。ローツェ登頂。 1990年 南極点に歩いて到達。 著書 |
ダフニー・シェルドリック |
体高3メートルを越える巨大な野生のアフリカ象と一人の人間の女性との間に「言葉」を超えた深い愛情と信頼の関係が今も続いている。 ダフニーはアフリカのケニアで、象牙密猟者のために親を殺された象の赤ちゃんを育て、 野生に還す活動を過去30年以上続けている。 エレナは、30年前、ダフニーに初めて育てられ、野生に還って行ったメスの象。 ダフニーが3歳まで育てた孤児達を預かり、野生で生きる知恵を教えながら一人前に成長 するまで養母の役割を果たす。このダフニーとエレナの連係プレーによって、今まで10数頭の孤児達が無事に野生に還って行った。 象は人間にも価する高度な知性を持っている。しかし、その知性は人間のように自然を支配 しようとする知性ではなく、自然と調和し、自然を受容しようとする知性である。ダフニーとエレナの感動的な再会のシーンを中心に象の社会から人間社会へのメッセージをダフニーが伝える。 |
1930年 ケニア生まれ。同国の伝説的猟区監視官 著書 |
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エンヤ |
神話と妖精とケルト遺跡の島、アイルランド。 そのアイルランドから聞こえてくるエンヤの歌声は、我々の魂の奥底に眠っていた遠い記憶を呼び覚してくれる。 古代ケルト民族の血を色濃くひくエンヤ。 その神秘的な歌声には、自然の全ての現象に神が宿ると信じた古代ケルト民族の宇宙観が宿っている。 エンヤの歌声は、我々を異界の海へと誘う幻の小舟。 水先案内人はケルト美術研究家の鶴岡真弓。 エンヤの生まれ故郷アイルランド北端の小さな村グイドーを出発点にして、アイルランドの自然とケルト遺跡を訪れる幻想の旅。 |
1963年 アイルランド生まれ。 |
鶴岡真弓
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1952年 茨城県に生まれる。 早稲田大学美術史科卒。早稲田大学院文学研究科修士課程修了。ダブリン大学トリニティカレッジ留学(アイルランド) 第一回倫雅美術奨励賞(1989年)受賞。 現在、多摩美術大学芸術学教授。 著書 |
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ラッセル・シュワイカート |
アポロ9号の乗組員だったシュワイカートは、月着陸船のテストを兼ねて宇宙遊泳中に、ある不思議な体験をした。 |
1935年 アメリカ、ニュージャージー州ネプチューンで 生まれる。 1956年 マサチューセッツ工科大学卒業。 1963年 同修士課程修了。 1956年 1969年まで合衆国空軍およびマサチューセッ ツ国家安全空軍の戦闘機のパイロットを勤める 1963年 NASAの宇宙パイロットとして訓練を受ける。 1969年 3月3日から13日までアポロ9号のパイロットと して宇宙空間で241時間過ごした。 その後、スカイラブ計画の後方司令官NASA 渉外部長を勤める。 1977年 1978年までカリフォルニア州知事のスタッフと して科学技術に関して補佐。 1979年 5年半、カリフォルニア州エネルギー委員会の コミッショナー、内3年は委員長を勤めた。 (スタッフ数500人以上、年間予算5000万ドル) 1985年 宇宙探検家協会(ASE)を創設。 1987年 1988年まで合衆国南極対策委員会の委員長 ワシントン州国立科学基金の議長を勤めた。 1988年 ASEより「The Home Planet/地球・母なる星」 が、10ヶ国で同時発売となり、発売と同時に ベストセラーになった。 1969年 NASA特別功労賞 テレビ芸術アカデミー賞 科学特別賞 1970年 宇宙連盟賞 1973年 NASA特別賞 |